非共産党系勢力の活動の自由化が進み、1989年6月に一部不完全ながら自由選挙を初めて行ったのはポーランドであった。選挙の結果レフ・ヴァウェンサ率いる「連帯」への穏健的な政権移譲が行われた。
ハンガリーでは、社会主義労働者党(共産党)政権のもと、1989年2月に複数政党制が正式に導入され、5月にハンガリーとオーストリア間の国境を開放された
1989年8月19日。ハンガリー国民のために開放されていたハンガリー・オーストリア国境を1000人ほどの東ドイツ市民が集団越境し、オーストリア経由で西ドイツに亡命した事件。この事件が報道されるや、東ドイツ市民が大挙してハンガリー、チェコスロバキアに押しかけ西ドイツへの脱出を試みた。ベルリンの壁の持つ意味は相対的に低下し、11月の歴史的なベルリンの壁崩壊をもたらすきっかけとなった。
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1989年11月9日夕刻、東ドイツ政府は突如として東ドイツ市民の旅行を自由化すると発表した。この発表は、東ドイツ政権内部での事務的な手違いによるものだとされる。これによりベルリンの壁は崩壊し、その影響は全世界史的に広まった。現在ではこの「鉄のカーテン撤去」なくして東欧革命を語ることはできない。ベルリンの壁崩壊を受けて翌年の1990年10月3日に東西ドイツは統一された。又、ベルリン問題に一応の決着を見たためマルタ会談では冷戦の終結が宣言された。そして何よりチェコスロバキアやルーマニアにおいて、民主化を要求する市民たちを大いに勇気付けた。
ベルリンの壁崩壊を受けて東欧の共産党政権の連鎖的な崩壊が始まった。チェコスロバキアでは、ポーランドやハンガリーのような予告された民主化の約束はなかった。しかし、ベルリンの壁崩壊に勇気付けられたチェコスロバキア国民は、1989年11月に至り、民主化勢力を中心にデモやストライキ・ゼネストを度重なって行なった。それらの事態を収拾できなくなった共産党政府はなし崩し的に民主化勢力との話し合いによる解決を模索することとなり、結果、両者は共産党による一党独裁体制の放棄と複数政党制の導入を妥結した。この「革命」では後のルーマニアのような流血の事態には陥らなかった。これを指して「ビロード革命」と言う。