特定の領主がその領地・所領を支配するという土地支配のあり方を根本的に否定・変革するものであり、「明治維新における最大の改革」であったと言えるものであった。
だが、大隈が建議した「全国一致之政体」の確立までにはまだ多くの法制整備が必要であった。その事業は、岩倉使節団の外遊中に明治政府を率いた留守政府に託された。留守政府の元で徴兵令(海陸警備ノ制)・学制(教令率育ノ道)・司法改革(審理刑罰ノ法)・地租改正(理財会計ノ方)といった新しい制度が行われていくことになった。
琉球藩 [編集]
明国と冊封関係にあった琉球王朝は慶長14年(1609年、万暦37年)の薩摩藩による侵攻以来、日本と中国に両属してきた。明治政府は琉球王国を琉球藩として日本に組み入れ、更に沖縄県として実質的国内化を図った。琉球藩とは、明治5年9月14日(1872年10月16日)より明治12年(1879年)3月11日までの琉球の公称である。
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旧藩債務の問題 [編集]
既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじて凌いでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが黒船来航以来の政治的緊張によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出る藩主(藩知事)さえ出てくる状況であった。
これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった(藩札も最終的には発行元の藩がその支払いを保証したものであるから、その藩の債務扱いとなる)。
廃藩置県によって旧藩の債務は旧藩主家からは切り離されて新政府が一括処理することとなったが、その届出額は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達して(しかもこの金額には後述の理由で天保年間(1830年?1843年)以前に発生した債務の大半が含まれていないものと考えられている)おり債務を引き受けた新政府にも財政的な余裕はなかった。
そこで、新政府は旧藩の債務を3種類に分割した。即ち、明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)、弘化年間(1844年?1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)、そして天保年間以前の債務については一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものであった。
(なお新政府は朝敵となった江戸幕府による債務はその発生時期を問わずに一切の債務引受を拒絶したため、別枠処理された外国債分を除いて全て無効とされた)
その後、届出額の半数以上が天保年間以前の債務に由来するまたは幕府債務として無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。
だが債務の大半、特に大名貸の大半は天保以前からの債務が繰り延べられて来たものであり有名な薩摩藩の調所広郷による「250年分割」などが尽く無効とされたのである。貸し手の商人達から見れば大名貸は一種の不良債権であり返って来る見込みは薄くても名目上は資産として認められ、また社会的な地位ともなりえたがこの処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。特にこうした商人が続出した大阪(大坂から改称)は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となったのである。
旧藩主やその家臣はこれらの債務に関してその全てを免責された上、その中には直前に藩札を増刷して債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。